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2015.08.07

70回目の原爆記念日に

広島原爆投下から70年。
今日の修行は広島の原爆記念式典のニュースを見ながらのスタート。父の戦中の記憶や今年亡くなった母の長兄のことなどを聞きながら、ほんとうに戦争の記憶をどうやって次代に引き継ぐかは大切だなと思いました。今日まで知らなかったのですが、父の親戚や知りあいには広島で被爆した人もいたということです。

父の本籍地は広島市です。
僕も結婚を機に本籍地を動かすまでは、本籍地は父と同じ広島でした(当たり前です)。そのため、結婚やいろんな申請書類を揃えるのにも広島に申請して送って貰うという大変面倒なことをしていました。

父は戦時中・戦後の大変な状況を、これまではあまり語ることはありませんでした。

もともとは祖父の代(戦前)に広島から釜山に渡り終戦を迎え、ほとんどの財産を韓国に残して、着の身着のまま引き揚げてきました。広島が被爆していなければ、引きあげてきても福岡ではなく広島に行っていたのかもしれません。しかし、縁あって引き上げてきて福岡(吉井)に身を寄せました。

叔父(母の長兄)は、海外での戦況が厳しくなり、いずれ本土にもその戦火が及ぶかもしれない、そんなことになったら大変だという思いで、飛んでくるB29を撃墜するべく15歳で志願して兵隊になりました。本当は、特攻機に乗る覚悟だったそうです。しかし、その時にはすでに飛行士を訓練する飛行機もなく、飛行機に乗ることも叶わず通信兵となり、そのまま終戦を迎えたのだそうです。

叔母(母の長姉)のご主人(叔父)はもう20年くらい前に胃がんで亡くなりましたが戦地から無事に帰国し、酔うと軍刀を抜く人でした(斬りかかるようなことはありませんでしたが)。今は生身の日本刀を見ることなんて日常ではないでしょうが、当時の僕の日常では珍しいことではありませんでした。
母の記憶では福岡大空襲の時には、浮羽からも福岡(あるいは大刀洗)の赤く染まった空が見えたといいます。父母の世代では、まだ第二次世界大戦は記憶の奥底に鮮明に残っています。認知症になってもきっと原体験、記憶として消えることはないのでしょう。

引き揚げ者の筆舌に尽くしがたい戦後の苦労もあったはずですが、そんなこともほとんど口にしない父です。
祖父が釜山に渡らず広島に居続けていたら……

今夜、珍しくこんないろんな話をした後、母に
「偶然の積み重ねが必然なんだよ」
と言葉をかけ、両親は穏やかな表情で寝室に向かいました。
珍しく父はご機嫌でした。

毎日こんなだったら、本当にいいな。

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