東京大空襲から70年、親父が突然戦争の記憶を話し始めた
今年は終戦70年の年。そして今日は東京大空襲の日。
東京都庁には、大空襲による焼失地域の地図が掲示してあった。
東京大空襲を振り返るようなニュースを見つつ、父と酒を飲みながら東京都庁にある地図の事や空襲被害の事を話していた。すると、父がおもむろに戦時中の話しを始めた。
祖父が戦前に朝鮮半島に渡り、釜山で商売を始めた。父は釜山で生まれたが、物心ついたときには祖父は病に亡くなり(37歳だったという)、祖母が1人で5人の子どもを女手ひとつで育てた。終戦後の引き揚げ船で産まれて初めての日本、博多に戻った。その船中で、金品と共に家系図やいろんな物が盗難にあったという。
日本に引き揚げてきてからは、長姉が嫁いだ家の離れの物置の2階に家族が住まわせてもらっていた。
父は、そこから高校に通い、就職した。
母とはその職場で知り合い付き合いを始めるが、祖父(母の父)から「自分の家も持たないような、何処の馬の骨ともわからん奴に娘はやれん」と言われて近くに家を建てた。父は長男(男1人)だったので,家長であり祖母を始め家族全員が引っ越しをしてきて同じ家で暮らすことになった。
結婚を許されたが、母は姑と小姑との生活が始まった。当時では当たり前のことだけれど。
親父が家を建てたから、僕が今この世に存在できているのだ。
ここまでの話しは、母親からも恨み言も半分に聞いていた。
僕が産まれた家(自宅で産婆さんに取り上げられたので、本当に産まれた家)と、それまで祖母を始め家族が暮らしていた家とは歩いて5分くらいの所。その家を守っていた父の長姉の長女(僕には従姉妹)が、先月朝の仕事を終えて風呂に入っているときに息を引き取った。くも膜下出血による突然の別れだった。
父は、今までほとんど戦争中の話しをすることは無かった。釜山という土地に産まれて育ったからなのだろうか、それとも当時のことを思い出したくないだけだったからなのだろうか。それはわからない。
しかし、今日初めて戦争の記憶を口にした。
どうして今頃?と尋ねると、
「戦争の話しなんか聞きたくないだろうと思っていたから」と。
きっと、口に出すことも苦しく辛い経験、記憶だったのだろう。
戦争の記憶は、それぞれの人の中にしかない。共通の体験もあれば人それぞれの記憶もある。
父だけでなく、高齢となり記憶が薄れていく前に、吐き出せなかった思いを家族が受け止めなければならないのではないだろうか。
東京大空襲70年、東日本大震災から4年を迎える日に思いもしない父との時間が、自分にも振り返りのきっかけを与えてくれた。
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