報道番組は、「ダイハード」の「ソーンバーグ」になっていないか?
仕事を終えて帰宅し、毎晩見るニュース番組。
とても疑問に思うのは、ISILに関する報道姿勢。
そこで流される報道は、一連の映画「ダイハード」で捜査を妨害するテレビレポーター、「ソーンバーグ」と重なってしかたない。
話題にさえなればそれでいいのか?
残念ながら殺されてしまったであろう後藤さんは、映画「アンカーウーマン」のロバートレッドフォードと重なって見える部分もある。ジャーナリズムについて、それぞれの番組プロデューサー、ディレクター、記者、アンカー、自分の言葉で明確に文字にできるのだろうか?説明できるのだろうか?
ジャーナリストとして、限られたごく少数の人にしか言葉にできないような気がする。
「今」を伝える報道はいわゆるドキュメンタリーともちょっと違う。
日本人は、阪神淡路大震災、東日本大震災という未曾有の自然災害を経験し、突然身に降りかかる自然災害による生と死の狭間を、国民全体で自分の事のように感じ、思いを重ね共有したはずだ。しかし、ISILによる誘拐・拘束に関しては「自己責任」、「遠い国で起こった事」として他人事のような反応も多かった。それは、政府の対処に対する批判であったり、しょせんは「個人の無責任な行動の結果である」という突き放した捉え方でもある。
ネットでは、誰のコントロール下にも無い批判や主張・拡散・共有・共鳴・反論……
それをマスメディアは正しい方向に収束させるようなことも無く、あるいは政府・外務省の対応を野次馬のごとく批判をするだけで何の方向性も示せない。話題に遅れてはならない、視聴率を落としてはならないという場当たり的な放送に終始しているように思うのは僕だけだろうか。
イラク戦争の時には、何か問題が起こったときに世間や家族からの批判を恐れ、自社の社員・スタッフを現地に送ることはしなかった。もちろん、骨のあるジャーナリストが大手メディアの社員にもいたが、会社がそれ(現地へ行くこと)を許さなかったのだ。その流れは今も変わらず、今回の後藤さんや3年前に取材中に亡くなったジャパンプレスの山本さんほか、海外の紛争地で前線に立つのはフリーのジャーナリストであり、日本のマスメディアの多くは彼らの命を賭した使命感のうえに得られる現地の状況を報道するしか術はないのだ。まるで、「踊る大捜査線」の会議室を見ているようではないか。
2011年、911直後に現場を見ておきたいと、直後の11月にニューヨークに2泊4日で出かけた僕に、友人の記者から「行かせて欲しいと会社に要望したのに、危険だからと行かせて貰えなかった。羨ましい」と言われながら現地へ出かけたのが思い出される(写真はグラウンドゼロ)。
自分達で命を賭すこともなく、取材もせずに与えられた情報だけを流すのであれば、大戦中の大本営発表のニュースを流すのと同じだし、ニュースリリースをそのまま流すネットのニュースサイトとなんら変わらない。
ネットでは注目を集めるべくデマや妄想の投稿もあり、間違った情報の拡大や炎上にも繋がっている。
故松下幸之助翁は「批評、批判は後でよい」とも言っている。
このような状況下で、マスメディアに身を置く人には、今この瞬間に社会から求められていることを理解して「報道機関」としての役割を果たして欲しいと、切に思う。
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