ああ、青春の沖縄
中学校ではブラスバンド部に所属し、トロンボーンを吹いていた。
1年生の夏、中学生のブラスバンドコンクールで県大会(九州大会だったか?)で優勝すると、全国大会は沖縄で開催されることになっていた。当時はまだ日本に返還される前の沖縄。渡航するにはパスポートが必要だった。優勝して、みんなでパスポートを申請することを夢見ながら練習に励んでいたが、残念ながら………
優勝できなかった悔しさなのか、沖縄に行けなくなった喪失感からなのか、その日は塾に出かけたものの途中から家に引き返し、塾を休んだことを覚えている。
翌年、沖縄は日本に返還された。
パスポートを手にしたのは、失意のコンクールから10年後となった。
結局、初めて沖縄の地に足を踏み入れたのは、1977年12月。大学に入学し、米軍基地周辺の騒音を測定するアルバイトで、2週間滞在した。もちろん、渡航にパスポートは必要無い。まだ自動車は右側を走り、ウイスキーなどの洋酒は空港で免税で購入できた。当時は牛肉が高級品、ビーフステーキは憧れの食べ物だったが、沖縄では安く食べられた。ブロンドの女性を生で見たのもこの時が最初だった。慣れない左ハンドルと右側通行のため、騒音測定のサポートのために用意された10台以上のレンタカーは、半数以上が事故を起こした。
騒音測定は、12時間ごとの1日2交代。僕は夜の部で、19時から翌朝7時まで、基地の滑走路の延長上や山の上の公園、畑の真ん中……様々なところで夜を過ごした。見上げた夜空には満天の星が輝き、数え切れないほどの流れ星が流れた。沖縄でもオールナイトニッポンは聞くことができ、タモリや鶴光が、暗闇の中の孤独な時間を癒やしてくれた。
2週間のバイトを終えて福岡に戻る飛行機の中では、小さなクリスマスケーキが供された。クリスマスイブだった。
そのバイトで手にしたお金で購入した中古のヤマハCA1000Ⅲは、今でも現役でここにある。
翌年、1978年7月30日、道路の車道が左右入れ替えられ、クルマは本土と同じ左側通行となった。
沖縄がアメリカから日本に返還されたのは、41年前の今日、1972年の5月15日だった。
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