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2012.10.05

数々の訃報に接して

今週は、流通評論家の金子哲雄さん、文化功労者の俳優、大滝秀治さんを始め、たくさんの訃報が世の中を駆けめぐった。
プライベートでも、かつて一緒に仕事をした先輩方の訃報が次々と知らされた。どれもSNS、facebookを通じて。かつては電報で受け取っていた報せ。
訃報はできれば受け取りたくはないものだが、知らなければ後で色々と考えてしまうし、知らなければ知らないままで良かったのにとも思うことがある。SNSの情報伝達力は両刃である。

数年前から、葬儀関係はできるだけパスしようとしている自分がいる。
不義理は承知のうえ。
面倒くさいとか、時間がないとか、そういうわけではない(もちろん、東京と福岡を行ったり来たりしながらの生活で、物理的にその時自分の体がそこに行けないこともある)。5年前から既に悩んでいた
年老いた両親と月の半分とはいえ一緒に暮らすようになり、いずれはその時を迎えることを意識するようになった。そのうちに「死を迎えること」、「死を受け入れること」、「死を共有すること」について考えるように。そして、自分が喪主となった時にはどうなのか、自分の知らない人が大勢弔問に来たときにどう振る舞って良いのか、とも。
83歳の父は、自分が死を迎える時の事を心配しながら、「終活」に取り組み始めた。僕も、死を迎えるときのことを意識するようになった。そして、「自分の死」のその時についても。
自分だったらどんな葬儀が良いか、誰の弔問を受けたいか、あるいは受けたくないか。
葬儀とは儀式である。誰が、何のために執り行う儀式なのか?
そんなことを考えると、最近近親者だけの密葬が増えていることにも納得がいく。

コミュニティというものがしっかり存在し、一人の死をコミュニティ全体の損失、悲しみと受けとめた時代(そう、昭和はそういう時代だった)と今は違う。コミュニティが希薄になった今、「知人の死」は自分とは遠く離れたできごとであり、義理や人情よりも打算や体面が前面に現れるイベントになろうとしている。葬儀の後のお返しも大変だ。

故人と自分との関係を振り返り、その時にその場に行くべきか、どこでご冥福をお祈りするのが良いのか、と。

そして今夜、「最高の人生の見つけ方」をテレビで見ながら、人生に悔いを残さない生き方とは何かを考えている。
そんな時に、恩人とも言える人の訃報(まだ不確定)が飛び込んできた。
お世話になった方の訃報に接して、これからどう振る舞って良いかわからない自分がいる。

山下達郎の「ヘロン」ではないが、SNSよ、訃報を運んで来ないでくれ。

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