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2011.03.19

マスメディアの過去・現在・未来

福岡に戻り、10日ぶりに実家の両親と。
母親が開口一番
「大変やったね、お米とかないっちゃないと?」
「なんばいよるね、コメがないのはスーパーだけで、普通の米屋にはいっぱいある」
「ばってん、Kさんは東京の娘さんから電話があって、米がないちゅうて送ったてよ」
てな具合である。
テレビ局の取材先は、スポンサーである大手スーパーや大手家電量販店ばかり。商店街や駅前の個人商店を取材することはない。そして、そこで起こっていることが日本の全てであるように報道される。東電の原子力発電所の事故に関しても、本社で行われる記者発表だけでニュースにしているが、現場に足を運んで報道しているTV局は昨日までひとつもなかった。

30年前のタウン誌といえば、東京では「ぴあ」、福岡なら「シティ情報ふくおか」。
大小漏らさず地域情報を網羅し、それぞれのイベントの価値付けはせず、読者がそれぞれの自分の価値観で情報の価値を選別していた。
しかしバブルを堺に、読者は自分の価値基準を無くしてしまった。それは、まるで戦後高度成長期に親の世代が欧米ブランドを盲目的に信奉したように。
成功法則を伝授するマニュアル誌、おすすめ情報を網羅した雑誌が重宝され、自分の価値基準でものを選び、購入するという事が少なくなった。その延長に、メディア情報への盲目的受け入れ姿勢が当たり前となり、○○で紹介された、ということが価値を持つようになってしまった。
結果、メディアとの付き合い方が受動的になってしまった。

一方で、この10年ではIT機器の普及によって10年前とは比べものにならない量の情報を手に入れることができるようになった。しかし、その活用能力については世代間や収入(所有機器の違い)、関心度によって大きく差が開いてきた。ITを活用した情報収集力だけでなく、その情報の選別や検証をする情報量や経験値の蓄積が問われるようになった。

ちょうどいまリタイアしている団塊の世代は、元気でお金も持っている。気持ちだけは今の20代、30代よりも若いかもしれない。しかし、残念ながらITリテラシーは低い。情報源はTVと新聞に頼り、Twitterやfacebook、Ustreamなどを通して 時々刻々とライブで流れる情報からは取り残されている。テレビでたった一人のレポーターが、一つのスーパーで米が無いと言えば、全国どこでも無いかのように錯覚してしまう。
それだけに、テレビや新聞といった在来メディアがジャーナリズムというスタンスを捨てて報道機関から単に情報を垂れ流す媒体となり、それを受けとめる側にその情報の価値に疑いを持つ能力が無い今、混乱を来すことは火を見るより明らか。
従来のマス媒体が、自らその存在価値を規定できなくなった。一方で情報を流通させるインフラとなったインターネット上には様々な情報が流されるが、ソーシャルな目、フィルターを通すことによって情報は濾過され、精度を上げていく。

両親と食事をしながら、当然話題は地震・原発の話となったが、あまりに情報量や受け止め方が違うのに驚いた。確かに、東京と福岡では切迫感が違うが、そのくせ、福岡で単1乾電池や懐中電灯が店頭から消えているという現象を引き起こしているのである。そして、冒頭の母親の発言である。これはマスメディアの罪以外の何ものでもない。

原発の消火現場の映像を見ていて父が言った。
あそこで頑張っている人達は大丈夫だろうか。放水するだけ、作業するだけで良いなら、若い人でなくて、自分たち年寄りで十分だろう。年寄りに声をかけたら、喜んで現場に行く人間は大勢いるはず。これ以上この災害で若い人を死なせるようなことをしちゃいかん、と。

テレビは今、画面の前に座って見ている人の姿・気持ちが見えているのだろうか?

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