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2011年3月の記事

2011.03.26

津波に襲われた町

Dsc062553月11日、午後2時46分。東日本を巨大な地震が襲い、その直後には大津波が三陸の町を、さらには福島の原子力発電所までをも飲み込んだ。
そして、地震発生から遅れること2時間半。2mを超える津波が千葉県の小さな漁業の町を襲った。津波は、海岸の防波堤を乗り越え、集落を襲った。
しかし、それをテレビで報じる事はほとんど無かった。

あまりに衝撃的な三陸の大津波の映像は、いかにもテレビ的にインパクトがあり、しかも被災者の数も桁違いに大きい。首都の足下、千葉県や茨城県の被災状況は他に何も無い時であれば大災害と言えるものでも、三陸のそれに比べれば小さく見えてしまう。加えて、千葉や茨城は東京キー局が放送をカバーするエリアであり、従って系列のローカルな放送局が無い。岩手や宮城、福島県には、民放のローカル局があり、そこから東京のキー局へ映像が送られるが、それがないことも災いした。連日テレビでは三陸を襲う大津波の映像と、その被災地の様子ばかりが繰り返し流された。

Dsc06232Dsc06234地震から2週間が過ぎ、地震・津波は過去の災害となりつつある。現在進行形の福島第1原子力発電所の事故が、マスコミの最大関心事となった。さらに、東北の被害状況に加え、企業の生産設備や物流機構の被災状況がわかるにつれ、新たな問題が明らかになってきた。供給能力の低下による品不足、買い占めとヒステリックな購買行動。その一方で自粛からくる経済活動の落ち込み。
次から次に起こる新たな問題をマスコミは追いかける。そして、千葉や茨城の被災は過去のものとなりつつある。

                   ●

1995年1月、阪神淡路大震災が起こり、東京から関西の協力スタッフの安否確認の電話を連日かけ続けた。その時一人のライターさんにこう言われた。
「私たちは大丈夫です。ただ、情報誌もジャーナリズムの端くれを担っていると私たちは思っています。是非、今の神戸の状況を見ておいて欲しい。きっと将来役に立つはずだから」と。
しかし、直後に決まった転勤などで、神戸を訪れたのは1年後となってしまった。既に、神戸の町は震災から奇跡の復活を遂げようとしていた。以来、このライターさんの言葉は、僕の記憶の中にキズのように残った。

6年後、2001年に起こった911テロ。阪神淡路大震災が日本の一つの転換点になったように、この事件は世界を大きく変える転換点になる、と思った。そして、自分の記憶のキズがうずくのを覚え、自分の目で現場を見、音や臭いも感じ、記憶しようと、出かけた。

                   ●

Dsc06245東日本大震災で大津波に飲まれた三陸の被災地は、とても我々が足を踏み入れられる所ではないし、行くべきでもない。一方、茨城や千葉の状況はマスコミもほとんど取り上げないのでわからない。ネットで千葉日報などの記事を調べて、旭市飯岡を目指すことにした。
既にボランティアも現地に入っている事もわかったが、今の僕たちに手伝えることはない。災害復旧作業の邪魔になるようだったら引き返そう。もし、保育園や幼稚園があれば、こども達の様子を見て、困っていることを聞いてこようと、mikuも100部携えて長男と共に出発。

首都高湾岸線は、東京ディズニーリゾートの休園もあり、車の数は少ない。有料道路は極めてスムーズに、一度の渋滞もなく抜けて東金道路から国道126号へと車を進める。賑わう国道から右に折れ、九十九里浜沿いの道路に出て海岸沿いを北上。地震で倒壊したであろう古い家屋はあったものの、途中目立った被害は無かった。
しかし、旭市飯岡地区に入った途端、津波による被害がわかるようになる。
海側の歩道のガードレールは全て無くなり、支柱だけが海と反対に傾き、ムーミンのにょろにょろが行進しているような姿になっていた。国道に面した建物は基礎だけを残して何も残っていない家、あるいは残っていても1階部分は損壊している家ばかり。
やがて、「被災箇所片付け中につき、関係車輌以外の通行をご遠慮願います」の立て札。しかし、片側1車線の狭い道、Uターンする場所もないのでそのまま進み、とにかく邪魔をしないように町を通り抜けることにした。
町中にはいると、津波で流されたのだろう、天井が潰れた自動車や自動販売機、一階が素通しになった商店や民家などが道沿いにならび、ボランティアの人達が家の片づけを手伝っていた。途方に暮れる段階は既に過ぎ、復活に向けた息遣いが感じられた。
Dsc06243町はずれのセブンイレブンに車を停め、飲み物を購入して海を眺めると、遠くに消波ブロックがあり、その先に浪が砕けていた。
再び車に乗り込み、何もできないまま町を出ることにした。
町中をゆっくりと抜けて、旭市役所方面に車がさしかかる頃には、町並みも人々の様子もまるで様子が違っていた。地震も津波も別世界のように、ファミレスやファーストフード店は普通に営業している。
被災地とそれ以外の場所。その距離は数百kmかもしれないし、わずか1mの違いかもしれない。

距離の問題ではなく、今、生きるために助けを求め、耐え、努力している被災者がたくさん居るということを忘れてはいけない。そして、彼らは決して弱くはない。むしろ、失うことを恐れて何もできず、その場を取り繕うことに汲々としている誰かさんよりは前向きに事態に向き合う勇気を持っている。少なくともそう信じたい。

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2011.03.21

このまま夏が来るとCOOL BIZでも追いつかない

関東の計画停電は暫く続くだろう。
このままでは、電力供給能力が多少改善しても、夏の電力需要には遠く及ばない。

現在、関東のJRや私鉄では、節電のために暖房を入れていない車輌が多い。それでも暖かい格好をしていれば、寒い外よりも車輌の中の方が風もないし、いずれ乗客の体温などで暖まるのでまだ快適になる。
しかし、夏はそうはいかない。
冷房を切った車輌の中は、乗客の体温と吐息で蒸し暑さ・不快指数は限界まで高まるだろう。
冷房が効かない交通機関、冷房が効かないオフィス、冷房が効かないレストランやショッピングセンター………

経済活動を停滞させないためには、空間を提供するサービス業ではできるだけ震災前の状態で(冷房も効かせて)営業できるようにしなければならない。そうしなければ、街や商店に活気は戻らない。
そのためには、それ以外の電力消費を極力抑えなければならない。
問題は通勤時間帯の公共交通機関とオフィスの空調。
空調の利いていない通勤電車とオフィスに、人が少ない状況を創り出すことができるか。

ワークライフバランスどころか、ITを活用した在宅勤務を一気に進める必要があるだろう。
出勤は完全なフレックス、必要な人だけが、必要な時間だけオフィスに居ればいい。
それができない企業は、業務の効率化も、従業員のロイヤリティも上げることはできず、いずれ企業の存亡にも繋がるかもしれない。
そして、生き残れるのは………

今年、またネクタイが売れなくなるのか?

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2011.03.19

マスメディアの過去・現在・未来

福岡に戻り、10日ぶりに実家の両親と。
母親が開口一番
「大変やったね、お米とかないっちゃないと?」
「なんばいよるね、コメがないのはスーパーだけで、普通の米屋にはいっぱいある」
「ばってん、Kさんは東京の娘さんから電話があって、米がないちゅうて送ったてよ」
てな具合である。
テレビ局の取材先は、スポンサーである大手スーパーや大手家電量販店ばかり。商店街や駅前の個人商店を取材することはない。そして、そこで起こっていることが日本の全てであるように報道される。東電の原子力発電所の事故に関しても、本社で行われる記者発表だけでニュースにしているが、現場に足を運んで報道しているTV局は昨日までひとつもなかった。

30年前のタウン誌といえば、東京では「ぴあ」、福岡なら「シティ情報ふくおか」。
大小漏らさず地域情報を網羅し、それぞれのイベントの価値付けはせず、読者がそれぞれの自分の価値観で情報の価値を選別していた。
しかしバブルを堺に、読者は自分の価値基準を無くしてしまった。それは、まるで戦後高度成長期に親の世代が欧米ブランドを盲目的に信奉したように。
成功法則を伝授するマニュアル誌、おすすめ情報を網羅した雑誌が重宝され、自分の価値基準でものを選び、購入するという事が少なくなった。その延長に、メディア情報への盲目的受け入れ姿勢が当たり前となり、○○で紹介された、ということが価値を持つようになってしまった。
結果、メディアとの付き合い方が受動的になってしまった。

一方で、この10年ではIT機器の普及によって10年前とは比べものにならない量の情報を手に入れることができるようになった。しかし、その活用能力については世代間や収入(所有機器の違い)、関心度によって大きく差が開いてきた。ITを活用した情報収集力だけでなく、その情報の選別や検証をする情報量や経験値の蓄積が問われるようになった。

ちょうどいまリタイアしている団塊の世代は、元気でお金も持っている。気持ちだけは今の20代、30代よりも若いかもしれない。しかし、残念ながらITリテラシーは低い。情報源はTVと新聞に頼り、Twitterやfacebook、Ustreamなどを通して 時々刻々とライブで流れる情報からは取り残されている。テレビでたった一人のレポーターが、一つのスーパーで米が無いと言えば、全国どこでも無いかのように錯覚してしまう。
それだけに、テレビや新聞といった在来メディアがジャーナリズムというスタンスを捨てて報道機関から単に情報を垂れ流す媒体となり、それを受けとめる側にその情報の価値に疑いを持つ能力が無い今、混乱を来すことは火を見るより明らか。
従来のマス媒体が、自らその存在価値を規定できなくなった。一方で情報を流通させるインフラとなったインターネット上には様々な情報が流されるが、ソーシャルな目、フィルターを通すことによって情報は濾過され、精度を上げていく。

両親と食事をしながら、当然話題は地震・原発の話となったが、あまりに情報量や受け止め方が違うのに驚いた。確かに、東京と福岡では切迫感が違うが、そのくせ、福岡で単1乾電池や懐中電灯が店頭から消えているという現象を引き起こしているのである。そして、冒頭の母親の発言である。これはマスメディアの罪以外の何ものでもない。

原発の消火現場の映像を見ていて父が言った。
あそこで頑張っている人達は大丈夫だろうか。放水するだけ、作業するだけで良いなら、若い人でなくて、自分たち年寄りで十分だろう。年寄りに声をかけたら、喜んで現場に行く人間は大勢いるはず。これ以上この災害で若い人を死なせるようなことをしちゃいかん、と。

テレビは今、画面の前に座って見ている人の姿・気持ちが見えているのだろうか?

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2011.03.17

「広告」の力とはこの程度のモノなのか?

CMが流れるようになったが、相変わらずほとんどがAC(公共広告機構)ばかり。
この様な状況では、流すことをはばかられるようなCMしか流していなかったということか。
ユニクロやAOKIがCMを流しているところを見ると、企業・宣伝担当者の保身から怖くてCMを流せないのだろう。

911の直後、アメリカでは多くの企業や個人が、広告という形で様々なメッセージを発信していた。

広告代理店やクリエイター、企業の宣伝担当の皆さんへ。
今こそ、「広告」の力で日本を元気にするときではないのか?
その力を見せるときではないのか?

TVを見ながらもどかしさを覚える。

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2011.03.16

景気回復が被災地の支援にも繋がる

Img_0186s3月16日 午後5時前。
この時間に、人影まばらな銀座。
早く賑わいを取り戻して欲しいものです。
被災地以外では、震災前の普通の生活を続けることが、被災地を助けることにも繋がるのです。

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2011.03.15

スポーツイベントの過度な自粛は……

スポーツイベントは極力実施して欲しい。

スポーツはみんなに元気を与えてくれる。

国外で活躍するアスリート、
東北楽天イーグルスや甲子園での地元高校の活躍、
彼らの姿、エネルギーが、被災地だけでなく日本に元気を送る。

静岡以西の文化イベントもチャリティ目的で実施すればいい。
被災地復興支援チャリティとして。

メディアの役目は、その元気と思いを伝えることだ。

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富士山で心安らぐ

Img_0181東京から始発の新幹線で西へ、日帰りの出張。

富士山の雄々しく優しい姿を見ると、なぜか心が安らぐ。
日本人たからかなあ。

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2011.03.12

私も家族も無事です。

TVなどで、状況はご存じだと思いますが、福岡の震災を経験している皆さんですので、色々な思いでニュースをご覧になっているのではないでしょうか。折角ですので、私の今日の行動についてレポートしてみます(ちょっと長くなります)。

私が地震に遭遇したのは、赤坂での打ち合わせのために、赤坂見附の駅を降り、地上に上がるエスカレーターの上でした。
始めは、妙に揺れるエスカレーターだな、と思っていたのですが、だんだん揺れは大きくなり、地上に出たときには建物が揺れているのがわかり、一部の女性は悲鳴を上げていました。
目の前に見える山王パークタワーは大きく揺れ、揺れは長く続きました。
福岡の震災では、激しく縦、横に揺れた記憶がありますが、今回の東京では、大きくゆっくりと揺れていました。ここで自宅へ電話しましたが、繋がるもののいるはずの長男も誰も出ず。義母に電話して無事を確認。

揺れが一旦収まって考えたのは、訪問先へ行くことと、その近くの安全な場所。ちょうど訪問先がTBS近くだったので、何かあればTBS、BIZタワーなら、最新の免震・制振構造ビルなので、そこへ逃げ込むのが安全、とそちらへ向かいました。路上は、建物から出た人で溢れていました。
BIZタワーで、自宅や家族、あらゆる所へ電話するも全く繋がりません。
ならば、とPCを取り出し、WIMAXを立ち上げるとこちらは無事繋がり、メール、Twitter、facebookで状況がほぼ把握できました。この状況では、公共交通機関は当面使い物にならない。さて、どうするか。

先ず、取った行動は地下に行きトイレで用を済ますこと。これから自宅まで12km以上。普通に歩いても3時間、きっと思うように歩けないことは想定されるので、4時間を覚悟しての準備です。仕事なんて、この状況では何も成立するはずがありません。一番に考えるべきは、自分の身の安全と家族のコトです。そして、最寄りのコンビニで飲み物とエネルギー源のキャラメル、バームクーヘンを購入して歩き始めました。このとき3時半。
まだ、路上にいる人は建物から避難しただけで、動く(歩く)人はほとんどありませんでした。こういうときに、iPhoneは役に立ちます。自宅までの最短ルートを読み込み、目に焼き付かせます。いつ通信が途絶えるかわ
かりませんから。

Dsc06225そして、iPhoneを片手に自宅に向かってとにかく歩く。途中何度電話しても電話は繋がらず、しかも、データ通信もほとんどだめ。メールもだめです。しかし、歩いていると、時々fonの電波をキャッチして、データ通信が生き返ることがあります。そんなときに携帯メール・PCメールをチェックして、必要に応じて返信。そしてTwitter・facebookに書き込んで状況を伝えながら歩く、の繰り返し。歩きながら周囲の会話や雑音から、「震度7」という言葉は聞こえるも、やはり本当のことがわかったのは、Twitterからでした。神保町の公衆電話でやっとこども達と話ができて、自分の無事を伝え、これからそれぞれがやるべきことを指示(先ずは水と食料の確保)。

赤坂~皇居~大手町~秋葉原くらいまでは行く人、来る人が同じくらいですれ違いながら歩いていましたが、秋葉原を超えて北へ向かう道では、ほとんど同じ方向に歩いていました。まさに避難民の逃避行。思うように進めません。何かに追われている訳ではありませんが、時々来る余震で不安な集団。映画「宇宙戦争」で逃げていく地球人のような感覚です。あるいは、集団でひたすら同じ方向に歩く、まるで、大晦日に太宰府天満宮の参道を歩くような状況です。

秋葉原を通ったのは5時くらい。すでにほとんどのお店ではシャッターを下ろしていました。上野では、松坂屋でトイレを借りようと思っていましたが既にシャッターを下ろした後。近くの元気に営業していたパチンコ屋さんで用をたして、もう一息。しかし、上野駅周辺は人でごった返し、ここからの日光街道沿いはこれまで以上に北へ向かう人でいっぱいでした。

道路は上下線とも大渋滞。歩く方がよっぽど早い。自宅近くにたどり着いたところで、当面の食料を買い込んで帰宅、という一日でした。

妻は講談社でうち合わせ中に地震にあい、帰路に就くのが遅れて、私よりも2時間以上後に帰宅。それでも全員が無事でほっとしたのでした。
自宅に帰り着き、TVを見ると宮城・東北の想像以上の被害に驚きました。

Twitter、facebookを通じてたくさんの人に私や家族の安否について、心配していただきました。

私は、災害に遭遇する確率が高いようですが、逆に言えば、家族が災害に遭いそうなときには必ず家族と共にいるようです。普段は余り一緒にいなくても肝心なときには父親の存在を示せる、得な役回りかもしれません。

何はともあれ、我が家は全員無事・元気です。

ご心配いただいた皆さん、有り難うございました。

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2011.03.05

2011シーズン解禁

201103051待ちに待ったシーズン解禁。
好天に恵まれた分、めちゃくちゃ寒い。
夜が明けたばかりの目に入る景色は、霜で真っ白。
先ず目指したM川だが、これでは、魚の活性が良いわけはない。
それがわかっていても竿を出さずにいられないのが釣り人の性。

201103054201103055しかし、やはり全く反応は無し。
いずれにしても、本日のメインは古湯と思っていたので、古湯のC&R区間へ。今年の年券を購入して早速川へ。
川原の水たまりには氷が張り、朝のうちは活性が低かったが、10時くらいからライズが始まる。
201103056201103057

今年最初の1匹はヒレピンのチビちゃんでした。


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